命の終わりと向き合うとき
2夜連続の『シリーズ 人生100年時代を生きる』の第2回は延命医療・尊厳死について。
冒頭で「人生の最期は自然な形で迎えたい」と考える家族が出てきますが、気持ちはわかるけど、「自然」という言葉の使い方がおかしい例の一つだと思います。
「自然な出会い」とか「自然な食べ物」とか世の中には「自然」へのこだわりがやたらみられますが、大体本当の意味の「自然」じゃぁない。
「露骨に人工的・機械的・化学的じゃぁない」くらいなんですよね。
医療ならば「過度な延命医療」がそれで、目の前で痛がったり苦しんでいたら「自然」だからと放置できないわけで。
本当に自然なら、痛がろうが苦しもうが何もしないのが正しいはずです。
人工透析は自然か?
続いて出てきたのが、認知症で本人の意思確認がないまま人工透析を続けている患者でした。
人工透析の保険点数は2000点前後なので、1点=10円とすると1回2万円くらいです。週3回なら週6万円、月25万円くらいですかね。
病院側から見れば人工透析は儲かるので、本人か家族からストップがかからない限りはわざわざ辞めようとは思わないかもしれません。
終末期の病院を描いた『お別れホスピタル』では家族の意向で人工呼吸を付けると「保険の点数が稼げる(儲かる)」と喜ぶ医師がいましたが、これもまた現実だと思います。
どちらも、健康保険財政の悪化に繋がりますし、救急搬送して救急救命センターの負担が増えるのも負担が大きいですね。
君たちはどう死ぬか
昔は「人工呼吸器を一度付けたら外せない」と言われていましたが、今は外せるようになってるんですね。限定的な消極的安楽死とも言えるのかな?
でも本人の意思がわからず、家族で決断するのは悩ましいだろうなぁ。自分が殺す決断をするようなものだから。
日本人には「こういう時は、みなさん外されてますよ」と言ってあげるのが安心感を生むのかもしれない。
それよりも自分がどう死ぬかを考え、自分の意思をしっかり残しておけって話ですけどね。
「鎮痛剤マシマシで」とか指定ができるくらいにならないかなー(;´∀`)