体罰大国ニッポン
テレビでは「我々は殴られて育ったけど、そこには愛があった」というコメントもよく聞きます。
「子どもに愛情を持って育てた親だったが、殴ったのは間違い」としてもいいはずなのに、全ての行為に意味があったと思いたいから、一部の否定もできなくなってしまうのでしょうか。
「愛があれば良い暴力」と言っても
「愛があれば」と言っても、本当に愛があるのかは証明できません。 「愛があれば良い暴力」という考え方は、好きなように解釈ができる危険があります。
DVをする人間が「お前のためだ」と言って殴るように、「愛がある」なんて言ったもんがちになりますからねぇ。
「しつけ」も親が子どもに愛情を持って行うもの、という前提がある言葉であるため、暴力でもしつけと言われると口が出せなくなります。
また、愛には歪んだ愛もあります。極端な例を挙げれば、ストーカーだって本人は愛情表現のつもりでやってたりします。
「愛」の定義ができないのに、本人が「愛」だと認識すれば何をやっても許されるという風潮になるのは大変危険ですね。
「生存者バイアス」による連鎖
体罰に耐えたものが出世する仕組みの社会になっていると、「生存者バイアス」が働きます。
体罰に耐えたものばかりが生き残った場合、体罰を肯定するのは当然のことです。体育会系を優遇しているとそうなりやすいでしょうね。
体罰を含めた厳しい練習に耐える努力をしてきたから今があると思っている人間にとっては、自分の過去を否定するのは簡単なことではないので、これからも連鎖は続いていくことになります。
体罰を受けた中で育ち、上に立ってからも体罰・パワハラをしている人は出世させない仕組みを作れば変わっていくと思いますが…