出題者は、どんな答えを求めているのか?
学びの場における忖度力とは、「先生や出題者は、どんな答えを求めているのか」と考え、マルをもらえる答えを見つける力です。一方で学びの場における読解力とは、「この文章は何を意味していますか」などと問われたときに、文章などの事実に向き合って、相手の言おうとしていることを自分なりに一生懸命考え、正しく解釈する力です。忖度力と読解力は、似て非なるものなのです。
よくネタにされる「作者の気持ちを答えよ」という問題は、入試では出ることはないそうです。
作者の本当の気持ちなんて、作者本人以外にわかるわけがありませんし。
作中の人物の気持ち・心情を答えさせる問題はあるようですが、これも作者には「裏の意図」を入れている場合もあるし、読む人によって受け止め方が違っていいはず。
結局は記事にあるように、「出題者が感じた気持ちを答えよ」「出題者の意図を答えよ」、さらに言うと「出題者が考える模範解答を考えよ」になるわけですよねぇ。
正確な読解力を鍛えるなら実用文の方がいい
高校の学習指導要領の大幅改訂で、「現代文」が「論理国語」「文学国語」に分かれ、「論理国語」では契約書などの実用文を使って読解力を鍛えるになるそうです。
これには文学に触れる機会が減ると、懸念の声が挙がっていました。
しかし「人の言うことやその背後の気持ちを読み取ることのできない読解力の乏しい人間になってしまうのではないか。」と言えるほど、実用文の読解力が十分備わっているかというと…ねぇ。
契約書をちゃんと読まない・読めない人も多いわけで、実用文の読解力を高めないと社会生活において不利になります。
現状は、読解力の基礎をしっかり付けないまま、文学で読解力という応用を鍛えようとしすぎていると感じます。
京都の人の言い回しから本音を読み取れる?
「背後の気持ちを読み取ること」を重要視するなら、いっそ京都の人の言葉から、本音を読み取る力を鍛えてみてはどうでしょうかね?
一見は褒めてくれてるようで、嫌味を言われていると気付かないといけません。
読解力が豊かな人なら、全て読み取れるはず!
とは到底思えない、京都(それも洛中)で長く生きてきた人にしかわからない世界ですね。
日本で生きていれば、「忖度力」や「空気を読む力」が多少なりとも身につくのも同じこと。
でも学校においてそういう力を重要視するのは、良いこととは思えませんね。